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statement

良くも悪くも、ありのままに描くことを許せるのは自分だけです。他者を描くことに暴力性を感じてしまいます。観察する中で、相手の造形的な美醜への意識が生まれ、何かを侵害しているような感覚がつきまとう。それに対して、自分自身であれば、どんなふうに描いてもかまわないと思える。主観を採取できる唯一のサンプルであるという思いから、自分自身をモチーフに選んでいます。

 

鏡に映る自分自身の輪郭線を、鏡面上に直接トレースして自画像を描いています。それは、描く主体と描かれる主体が同じという、閉じた構造を作るためです。輪郭線をなぞり描くための動作によって、描かれる自分自身も動き、それを追いかけることになります。自分自身に描かされる。その影響関係をそのまま画面に定着させたいので鏡を用いています。このごく個人的な、私自身の輪郭を辿る行為は、逆説的に世界の輪郭線をなぞることになるのではないかと考えています。私と私以外は同じ形を孕んでいる。視点を反転させながら、同じ一つの形の手触りを確かめています。

 

筆の先だけを見つめて描く、とても視野の狭い描き方をしています。急にメインカメラが切り替わる両目に翻弄されて、福笑いのようにばらけてしまう顔面。描くために動きまわる右手、それに伴い変化する体勢。足のつま先に向かう時には、筆の進みがゆっくりになって、いつまでも届かないように感じる。それらは、鏡に描くことで初めて気づく身体感覚でした。鏡に向かい、見えたまま忠実に輪郭線を追おうとするほどに、手を止めて一歩引いた時には、異形の姿が痕跡として残っています。

 

正しく引こうと努めた線が、客観性を持ったときに形を危うくします。この行為を繰り返すことで私1人が群衆となり、具体的な形同士が互いに意味を打ち消し合いながら、密度の高い線の塊になります。歪さが歪なままで穏やかになっていく。自分の輪郭線という、私にとっての絶対的な根拠をもとにした形は、鑑賞者にとっては無意味な線の塊になります。

 

引かれた線が鏡であるということで、作品が像を固定しません。鑑賞者は私の輪郭線で切り分けられた鏡の中、絵画を見つめる自分自身と目が合います。鑑賞者は作品を見る主体として、強制的に作品に巻き込まれるのです。閉じた構造の中に鑑賞者が流れ込み、画面の内側から鑑賞者自身を見ることになる。閉じた行為を他者と共有する装置としたいと考えています。

​2026.6.24    吾郷 佳奈

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